●作法
 いまさら作法でもないだろう。マナーなんて面倒だ。そんなこと気にしていたら楽しめないじゃないか。
 そんな言葉があたりまえに語られるようになってから久しい。
 その昔、女性が「お嫁さん」を最大の目標と考えていた頃、「花嫁修業」という言葉があった。今でも皇族に嫁ぐ場合など、綿々と続く作法の試練があるようだが、いまさら現代っ子に「花嫁修業」はないだろう。お習字、お茶、お花などは、グローバル化や高学歴志向のなか、英会話塾やピアノ、学習塾に取って代わり、町を歩いたり電車に乗っていると、頭よさげで格好の洒落た、しかし態度の悪いお子さまたちがやたらと目に付く。
 ボクの妻は茶道石州流の師範である。たまに点ててくれる抹茶はうまい。生徒さんを募って教えたら?とは言っているのだが、発表会の意味合いでお茶会は開かなくてはならず、そこではきちんとした道具が必要で、現実に揃えるのが難しい(ボンビーなのよ)とのことで、実現するのは簡単ではないようだ。それに、いまどき生徒さんが集まるのか?というの危惧もあるとのことだった。
 茶道は、作法である。畳の上を歩く方法、座り方、茶筅の回し方、その姿勢、掛け軸、茶懐石……これは知識と体の鍛錬に他ならず、それこそが作法である。お茶のお稽古をしている人が相対的に少ないし、何の統計もないので速断は禁物だが、あえて言ってしまおう。お茶を習っている子供、作法が身に付いている子供で、暴力をふるったり、いじめの加害者側になる子はいないのではないか。
 人は生活する上で、規範に縛られている。倫理や道徳といった明文化されてないもの、作法や法律、規則、ルールなど明文化されているもの、そのみんなが規範だ。それを逸脱するとなんらかの罰則を受ける。スポーツだって車の運転だって、ルール違反がペナルティーなのは当たり前のことだ。人を殺せば罰せられ、凶悪な場合には死刑にさえなる。「人を殺す経験」は忌避されるべき経験でなければならない。
 規範を守る。それは社会的に学ばなければならないことで、親や地域がその任を負っている。「しつけ」というのがそれで、調査でも、子供が荒れる原因は処罰の甘さよりも親のしつけにあると見ている人が多い。昔に比べれば、親がしようとしてもしつけが難しくなっていることはわかる。社会環境の様々フェーズでそれは見て取れ、改善しようという動きも少なくないが、大きな成果をあげないまま収束してしまう場合が多いように思える。
 作法は鍛錬しなければ身に付かない。ダラダラと過ごしてもいいことは何一つとしてない。なにもお金のかかる習い事ばかりが作法を学ぶ場ではない。理屈をこねることなく作法が法となっている、そう、スポーツのゲームだってそうだ。ただ、ひとつ重要なのは、体を使うということだ。これははずせない。規範が肉体化することではじめて作法が「体得」(文字通りだ)できる。
 どうだろう、あなたの子供にお茶をやらせてみる気はないだろうか? 態度もしっかりし、しかも礼儀正しくなるいから、お洒落をしてもキマルこと請け合いだ。なんだったら妻に先生をやらせてもいい(笑)。

18/October/2000

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