●川古温泉
 温泉が苦手、という人も確かに存在するが、温泉は体にも心にもいい、というのは本当だ。幸福なことに日本には星の数ほどの温泉があり、「温泉に行きたい」という数多くの人の希望を叶え続けている。
 あまたあるガイドブックにも温泉は大きく取り上げられる。ボクらが温泉に行きたいと願うときのよき道標なのだが、大量に存在する温泉地のごく一部しか紹介されていないのが現実だろう。だからこそ秘湯を探すことが悦楽として色香を放ち、大人の遊びに彩りを添える。

 群馬県に新治村というところがある。猿ヶ京温泉を知っている人は多いだろうが、近辺にもいろいろな温泉があることはあまり知られていない。妻の実家が沼田市にあることもあり、車で20分ほどの新治村の温泉にはよく行く。ゴールデンウィークにも沼田〜新治に行って、日帰り温泉の「遊神館」に2日連続で行ってしまった(ここは秘湯でも何でもない結構大きな施設なのだが、休日は大変な混みようで辟易する。それでも行ってしまうのはその泉質の良さだ。胃腸を悪くしていた妻も、真から暖まったようで、その後、調子がいいらしい)
 その遊神館からさらに三国街道を登っていくと猿ヶ京温泉郷に到るが、その手前にもいくつかの温泉がある。今回話題にするのは、猿ヶ京から水上に抜ける道沿いにある一軒宿だ。

 ボクの親父が足の痛みで苦労しだしたのは2年ほど前だったろうか。病院にも通ったが、なかなか良くならない。高血圧と糖尿病を治した自信があったのだがこればかりはどうにもならず、定年後に歩くことを目的としたクラブに入ったほどの健康自慢がカゲを潜めた。手術を受けようという前向きな姿勢への弾みもつかず、まわりの人間も心配が絶えなかった。しかし、ここに来て手術を受ける気になった。いまは手術も無事済み、病院のベットで術後のリハビリに励んでいる。
 こんな親父のために、妻のお父さんが紹介してくれた温泉が「川古温泉」だった。全国ぬる湯番付(初めて聞いた)の大関だそうで、いい温泉だという。その昔は関取なんかが湯治に来たり、一度きた客はほとんどリピーターになるという話で、そこに1週間以上長逗留するといい、というアドバイスを受けた。
 昨年の秋、予約を入れてボクの両親を車で連れて行った。ボクと妻は最初に一泊し、一旦帰って9泊する両親が帰るときにまた迎えに行くという計画を立てていたのだが、1泊したところでそれは脆くも崩れ去った。結局3泊したが、それでもまだ帰りたくないと駄々をこねることになる。
 お湯がすばらしい。38℃程度のぬる湯なのだが、無色透明で湧出量もたっぷりだ。源泉から太いステンレスのパイプで湯を引いている。そんな温度だから長湯がきく。女将さんの話によると、食事と睡眠以外は風呂にいる、なんて人もいるそうだ。湯船に体を沈めてしばらくたつと、体表面に無数の細かい泡が発生する。炭酸が含まれているわけでもないのは、風呂場に飲用のために置いてあるコップで飲んでみればわかる(ひとつ問題は、シャワーがついているにもかかわらず、お湯が出ない。おしゃれな女性は髪を洗うのに困るかも)
 ロケーションがすばらしい。ダムのためにつくられた立派な舗装道路を脇道に入り、川沿いに降りる。のどかな河原に架かる細い橋を渡り、一軒宿の旅館「峰」に入る。栗の木が多い。小さな畑もある。冬は雪に閉ざされて営業しないが、夏でも涼しい。向こう山をトビが旋回する。
 宿の主人は去年行ったときは入院中だったが、なんと102歳の高齢である。女将もキレイなおばあちゃんで、暖かく歓迎してくれる。「ウチの風呂に入ればオレみたいに長生きするゾ」という大変説得力のある主人の言葉もあながち誇大広告と思えないところが、ここの湯のすばらしさだ。
 湯治場ではあるが、朝晩の食事はつく。並の宿と違うのは、その質素さだ。山のものを多くとりいれた、まるで郷里の親戚の家に下宿しているようだ。豪華さのカケラもなく、若者にはモノ足りないかもしれないが、長逗留しているとその適切さに気づく。毎日違うのが当たり前な、日常的食事のありがたさは、現代人の忘れかけている大切さかもしれない。2日目の夕食に、やたらと固い肉の小片が入った煮物が出た。噛むと旨味がひろがり、不思議な味がした。女将曰く、熊の肉だそうだ。売買は禁止されている熊である。近くの猟師仲間が穫ったものがおすそ分けされて、食卓にならんだ。宿の主人が猟師でもあるという。昼は、近くに食べに出かけてもいいし、頼めば近くのそばやからとってくれる。

 泊まったとき、「初めてのお客さんは久しぶりだ」と言われた。信頼感と口コミだけで経営を続けられる所以であろう。  なお、近くにはもっと近代的な、露天風呂もある旅館もあり、源泉はそちらだ。「峰」主人は以前その旅館の主人であった。引退したあとに息子が取り仕切っているが、元気な主人は、じっとしていられずに「峰」をはじめたのだった。


19/May/2001 (in1925 Malcolm X was born!)

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