●見えている
 あなたは何を見ているだろうか? 今はこれを読んでいるのだからコンピュータの画面だろうが、視野の中には他の様々なものが見えているはずだ。
 人間の網膜は、通常の場合左右180°、上下も180°近くが映っているのだから、キーボードに触れている手の先や画面の向こうにあるなにがしかが見えている。とは言うものの、色の識別が可能な範囲は限られているし、その範囲も人によって異なることは統計的に証明されている。

 文化的な意味でも見えているものは異なる。曖昧な記憶で恐縮だが、こんなエピソードがある。
 文化人類学の研究で、未開の村に映写機を持ち込み、西洋文明社会でごく一般的でわかりやすく楽しい映画を上映し、「何が映っていたか」との質問をした。返ってきた答えは「虫が飛んでいた」「牛が歩いていた」など、彼らの文化の文脈にだけ沿った答だったという。美人の女優も、豪華なセットも彼らの関心を引くことはなかった。いや、彼らには見えていなかったのだ。
 映画や写真、絵画などをみることについてはメディオロジーを展開するレジス・ドゥブレ氏の面白い研究もあるが、それ以前に、絵画が宗教的な位置から権力者による権威誇示的な位置に移動し、さらには美術館が誕生して一般大衆に開かれていくことで、見られる状況も視線さえも変容してきたことを考えても、見ること、見えることの文化を背景にした意味合いは大きいことがわかる。
 見ることは、極めて文化的な行為なのだ。

 J.L.ゴダールという映画作家がいる。日本でも最新作「愛の世紀」(LINK)が公開され、「映画史」のDVD(日本のみ!)(LINK)も発売されて、一部で盛り上がっているが、とかく「ゴダール的」で難解とされる。「映画史」は過去の映画の断片や絵画/音楽/スチールが様々にコラージュされた、人によっては驚喜さえする内容のだが、それらが見えない人にはいったいこれが何かなのさえ不明だろう。パリのシネマテークに通い詰めだったゴダールの体験を再構成して提示した内容なのだから、その情報量たるや凄まじい。80年代以降スクリーンに復活したゴダールは、以前にも増して画面の情報量が増え、更にゴダール的になった。「わからない」という言葉もまま聞く。文化表象としての映画が現ハリウッド的になり、リュミエール兄弟の映画に驚嘆した「見えている」ことを感じられる網膜が失われてしまったのだろう。映画を「見る」ことの意味が変容してしまったことは悲しむべきことだし、ここに文化的な衰退を感じてしまう。

 ボクは視力が両眼とも1.5だが、昔からアフリカの平原に暮らしつづけている人たちは軽く2.0を超すという。遠方の動物の影を見分ける必要があるからということだが、必要性だけがその理由であるとも思えない。微かな差異に眼球を遊ばせ、広大な視野の中の情報をつかむ。目としての機能の原初の姿を思うのは間違いだろうか。
 現代日本に暮らすボク達は、強制的に「見せられている」ものに溢れ、「見えている」ことの大切さを感じなくなってしまった。都市は風景さえ恣意的で、宣伝広告や工業製品に埋め尽くされた視野の中で、日常は、「見えている」ことの異常なほどの優位性を見失った。目を持つ意味さえ省みることはないだろう。
 最近、デザイナーズマンションであるとかデザイン家電など、マス的でないデザインプロダクトが話題になっているが、「見た目」だけの浅はかなものも少なくない。こういったプロダクトを選択する人たちが、「見えている」ものを見る力があると嬉しいのだが。

 目が商売の道具でもある画家やグラフィックデザイナー、印刷技術者や写真家などは、多くの場合、それ以外の人たちよりも多くが見えていると信じたい。そうでなければ、見る力も見えているありがたさも、文化的にどんどん遠ざかっていってしまう。盲人だけがその驚異的な優位性を知っている状態は、いかにも悲しいではないか。
 画家のセザンヌは、「対象に目を張り付ける」ことで絵を描いた。対象に張り付く程までの視線によって、はじめて絵が描けた。見る力は、視覚表現の源だ。見る力に自信がないなら、目を使った商売などヤメテシマエ。


28/June/2002 (in1712 Jean-Jacques Rousseau was born!)

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